堀川龍一
堀川龍一(ほりかわ りゅういち)は大正10年、鹿児島市に生まれた。九州帝国大学医学部を卒業後、海軍病院での勤務中に終戦を迎えた。昭和22年より国立小倉病院の整形外科医長の職にあったが、昭和29年、義理の叔父である川﨑祐宣から求められ、旭川荘創設への参画を決意する。
堀川は、医師を志したときから肢体不自由児の治療を生涯の仕事と決めていた。したがって新しく創設される施設で働くことには、自ら大きく期するところがあった。昭和30年、堀川は川崎病院へ赴任。整形外科医長として勤務しながら、旭川荘設立の準備にとりかかった。岡山県下を巡回し、多くの肢体不自由児を検診した。ほとんどの障害児が適切な治療を受けられずにいる状況に心を痛めた。
昭和31年、旭川荘が発足し、翌32年「旭川療育園」の初代園長に就任し、肢体不自由児の治療に全力でとりくんでいく。当初は整形外科医として勤務し、旭川荘内で子どもたちと起居をともにして療育にあたった。障害児の治療、訓練、生活指導、教育を行い、社会復帰をはかる。さまざまな計画は、堀川の指導のもと進められた。
つねに子ども第一だった。旭川療育園の子どもたちの毎朝の朝礼にも欠かさず参加し、ともにラジオ体操にいそしむ姿は、多くの職員と子どもたちの記憶に残っている。
堀川龍一の生涯とその情熱は、一貫して肢体不自由児・者の治療と療育に捧げられた。つねに子どもたちとともにあり、深い愛情を持ってひたすら治療と療育に献身した堀川の姿勢は、旭川荘の精神的な規範として後世に受け継がれている。